平安時代の初めに、密教を学ぶため遣唐使の一員、留学生として唐に渡られ、密教の第八祖になられた弘法大師・空海・お大師様(西暦774~835年)が、日本に帰られて後開かれた教えが真言密教・真言宗です。
密教においては、他の仏教とは違い、欲望も含め、我々人間の全存在を真正面から肯定します。
そして、
「仏様だけが尊いのではない。すべての人も同様に尊いのである」
「自分の中にこそ仏がいると知るべきである」
「本当の自分を知るということは、仏の心を知ることである」
「自分の中に宝を持っていながら、自分の宝を知らない」
と説きます。
ところが、一般の仏教では、
「人間は皆、抜け出し難い業を背負っている」
ととらえ、その業=罪を生み出す元とは、次の三つ=三業であると説きます。
【1】人間が身体で行った罪(行為の罪)
【2】人間が口で喋った罪(言語の罪)
【3】人間が心で思った罪(意識の罪)
これに対し、真言密教では、この身・口・意の三業を「業」とはとらえず、「三密」と呼び、
この身・口・意を使ってこそ、仏になれると説きます。
密教という名称は、この三密に由来しています。
つまり、仏様だけが仏なのではなく、我々も同様に仏であり、本来仏たる資質を備えている。
そして、たとえスケールは違っていても、我々も他の人に代わってもらうことのできない独自な仏としての役回りを持っている。
だから、「仏と我々の身体・言葉・心の三種の行為の形態が、不思議な働きによって感応しあう時、速やかに悟りの世界が現れてくる。 (三密加持)」と説きます。
以我功徳力=我々の功徳の力
如来加持力=仏の救済の力
及以法界力=両者の出会いの場としての全宇宙のあらゆる力
この三つが融合しあうことをいいます。
「加」とは、仏のお力(ご加護)が修行する我々の心に映ることであり、
「持」とは、修行者の心が仏のお力(ご加護)をよく感じること」です。
さらに、一般の仏教では、
「愛欲に飽きることを知らないこと」「愛欲が原因で怒ること」「愛欲に酔いしれること」の三つを、なかなか抜くことのできない三毒の煩悩と説きますが、真言密教においては、「欲望」も「怒り」も、現に存在しているものであり、これを否定することは、「波の外に水を求めるようなものである」「波は水だ」と説きます。
この意味は次のとおりです。
「性の欲望というものは、もともときわめて御し難い、それ故欲望からくる諸々の悪を防ぐには、初めからその欲望を一切否定し、認めないとするほうが、策としては手っ取り早いし、教えにも一応の筋は立つ。それ故に一般の仏教では禁欲の旗を掲げているのだ。
しかし、現に生身の人間が住むこの世で、そういう教えが本当に成り立つだろうか。もしも性の欲が一切いらぬ、というなら子孫は絶え、この世から人間というものが消えうせることになろう」
真言密教では、次のように欲をとらえています。
「この世の中で欲望を捨てることほど大きな罪はない」
「もし、欲が邪魔になるなら、もっと大きな欲で制すればよい」
「例えば、御仏と同じ一切衆生を済度するという大欲が我々に持てれば、目先の小欲は制することができる、欲の浄化とはそういうことだ」
「将来、大欲があったお陰で今日の自分がある、と言えるようになれる」
弘法大師いわく、
夫れ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。
真如外に非ず。身を捨てて何んか求めん。
迷悟我に在れば、発心すれば即ち至る。
明暗、他に非(あら)ざれば、信修すれば、忽ちに証す。
哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子。
苦しいかな、痛いかな、狂酔の人。
痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。」
(般若心経秘鍵)
「仏法は自分の中にあり、とても近いものだ。
この体を捨てていったいどこに真理を求めようとするのか。
迷いも悟りも自分の中にあるのだから、発心さえすれば必ず悟りにたどりつける。
智恵の光も煩悩の闇も、自分の中にしかないのだから、それさえ分かれば、結局、目を開けて見るか、目を開けて見ないかで決まってくる。
哀れなことだ、哀れなことだ、煩悩の闇に浸っている人は。
苦しいことだ、痛ましいことだ、煩悩の快感に酔いしれている人は。
酔っぱらい -煩悩にひどくとらわれている人- は、酔わない人 -迷いの世界の快感に酔っていない人- を笑うし、眠りこけているもの -闇夜に浸っているもの- は、目が覚めているもの -煩悩のとらわれから解き放たれているもの- を笑うようなものだ。」
(意訳)
以下つづく
南無大師遍照金剛